玉乃屋泡侍さんインタビュー|舞台照明に光ったひとつのシャボン玉から

シャボン玉のパフォーマンスが、まだ「芸」として知られていなかった1980年代。原宿と銀座の歩行者天国に、尻尾からシャボン玉を出して歩く、ちょっと変わった人がいた。
玉乃屋泡侍(たまのや ほうじ)さん。パントマイムとダンスの舞台から出発し、バブル期にはシャボン玉のコンビ「バブルアップ」として数多くの舞台に立った。なんばグランド花月の大舞台に立ち、パリの広場でも路上公演を行っている。「シャボン玉ショーの歴史」で、日本のシャボン玉ショーの第二の源流としてご紹介した先達だ。
シャボン玉おじさんこと野村佳史が、泡侍さんにお話を伺った。名前に込めた思い、シャボン玉に出会った夜の舞台、そして「認識の間違いだった」と振り返る若き日の旅のことまで。

この記事でわかること
- 「玉乃屋泡侍」という名前に込めた思い
- パントマイムの舞台から、シャボン玉の芸にたどりついたわけ
- 1980年代の歩行者天国と、バブル期のシャボン玉コンビ「バブルアップ」
- 花王名人劇場、パリ、サンリスでの舞台のこと
目次
「玉」と「泡」を、名前の中に
――まず、お名前のことから伺わせてください。「玉乃屋泡侍」、姓名判断で調べてみたら、ほとんどが大吉だったんです。ずいぶん考えてつけられたのではないですか。
いやいや、それほど考えてはいないんです(笑)。姓名判断は、つけてから見ました。悪かったら困りますからね。
やりたかったのは、「玉」と「泡」をひとつの名前の中に入れることでした。これが意外と難しかったんですよ。最初は「泡之助」のような名前も考えたし、数字を当てはめて考えたりもしました。
「じ」の字も、はじめは別の字にしようかと思っていたんですが、「侍」にすると泡の侍になる。ちょっとかっこいいし、日本的で、意味もあるじゃないですか。「や」も「家」にするか「屋」にするかで悩んで、結局「屋」にしました。深い理由は、それくらいです。
舞台の道へ
――21歳で舞台の世界に入られたと伺いました。どんなきっかけだったのでしょう。
理由はあったんですけどね。だんだん、そういうことがどうでもよくなるような人生になってしまって(笑)。
舞台をやっていたころは、2か月、3か月かけて準備をして、自分で切符を売って、終わったらセットをほとんど壊すんです。いつまでも置いておけませんからね。その繰り返しを、自分はずっと続けてはいけないだろうな、という思いが大きかった。
それなら、踊りなら踊り、パントマイムならパントマイムで、技術を身につけて磨いていく。それなりに高い技術を持てれば、人を楽しませることができるし、仕事にもなるんじゃないか。そう考えるようになりました。まだシャボン玉は始めていなかったころの話です。
舞台照明の中で光ったシャボン玉
――そこから、なぜシャボン玉だったのでしょうか。
パントマイムをやっていたころ、小さな舞台に私も後輩たちも出ていたんです。その中で、ひとりの女の子がシャボン玉を使った演目をやったんですよ。
シャボン玉をつくって、手に取ろうとして、ガラスの器に入れて、食べるまねをする。それが、舞台照明に当たってね、すごく綺麗だったんです。それが、ひとつ大きかったですね。
歩行者天国に現れた「尻尾」
――1982年ごろ、歩行者天国で尻尾からシャボン玉を出していらしたと、記事で読みました。
31歳ぐらいのときです。パントマイムの先生のところも、ダンスも辞めて、さあ何をやろうかと考えていたときに、突然ひらめいたのが尻尾の仕掛けでした。
つくって、最初は後輩が尻尾をつけて、私は後ろで一生懸命支えながら、原宿の歩行者天国でやったんです。当時の原宿は、とにかく人が多かった。それが、いきなりすごく評判がよかったんですよ。
私がパントマイムの物語を考えて稽古して見せるより、ずっと人の関心を集められる。そう感じました。そのあと、尻尾をつけていた後輩ともうひとりの後輩と、3人でグループをつくりました。名前は、いいかげんな名前でしたけどね(笑)。
あるプロデューサーが見つけてくれて、テレビ局のスタジオの仕事をいくつもいただきました。代々木で毎年開かれるスポーツフェアにも、何年か続けて出してもらった。食べていけるほどではなかったですけど、3人でやっていこう、という気持ちになっていました。
――マジックやパントマイムではなく、最終的にシャボン玉に行きついたのはなぜですか。
マジックでないのは、私がそれほどマジックが好きじゃないからです(笑)。マジックらしいことを取り入れてはいるので、否定はできないんですけどね。
シャボン玉に行ったのは、舞台で見たシャボン玉が綺麗だったこと。それから、思いつきでつくった尻尾の仕掛けが大受けしたこと。その二つですね。
品川駅のホームで出会った相方
――「バブルアップ」はどのように生まれたのでしょうか。
36、37歳のころ、品川駅で珍しいイベントがあったんです。「バーボンエクスプレス」といって、列車の中にカウンターをつくって、ちょっとしたバーのような雰囲気にした車両が、伊豆まで行って帰ってくる。国鉄と酒造メーカーが組んだ企画でした。
そこに1週間ほど入っていたときに、パントマイム仲間として来てもらったのが、のちの相方の奥田正志です。彼はパントマイムのほかにマジックも少しできて、人を集める力もあった。
そのころ、3人のグループのひとりがほかのことに興味を持つようになって、あまり稽古ができなくなっていたんです。ちょうどそこへ、私より先にシャボン玉の情報を集めていた奥田が、シャボン玉のショーをやりたいという話を持ってきた。私もやろうと思っていたから、じゃあやろうか、と。
「バブルアップ」という名前は彼がつけました。昔、同じ名前の清涼飲料があったんですよ。シャボン玉がとんでいく感じで、いいなと思ってね。
――活動されていたのは、ちょうどバブル景気のころですね。
そうです。当時はまだ「バブル」という言葉もなかったと思いますが、日本の景気はとにかくよかった。前の年の年末には、もう翌年のゴールデンウィークの仕事が決まっていましたからね。私らの仕事としては、いちばん忙しい時期でした。
いまはイベント会社さんが「2か月先、空いていますか」と電話をかけてくるでしょう。あのころは、それよりずっと先まで予定が埋まっていました。バブルアップは6年ぐらい続きましたね。
当時の名刺や写真なんかは、いまもしまってあります。すぐには出てこないけど、探せばありますよ。
なんばグランド花月の大舞台で
――「花王名人劇場」にも出演されています。どういう経緯だったのですか。
イベント会社の紹介です。会場はなんばグランド花月でした。
ただね、あのときはシャボン液がだめになっていて。大きいシャボン玉の液は相方の担当だったんですが、少し前につくった液をそのまま持ってきてしまった。PVAを使った液は、夏だと2日もするとだめになるんですよ。何度も失敗して、舞台に迷惑をかけました。
最後は、舞台に霧を撒いたんです。湿気があるとシャボン玉の環境がよくなりますからね。雨が降ったあとのような状態にして、なんとか乗り切りました。
出演者は、間寛平さんや、初代の江戸家猫八さん。そんな名人がそろう中に入れてもらって、そのあと仕事も増えましたね。
パリの広場と、城の町サンリスで
――パリやアムステルダムでも公演されたそうですね。いまよりずっと海外が遠かった時代です。
自分たちでやりたいと思って、2人でパリへ行ったんです。ポンピドゥー・センターでやれるらしいと聞いてね。行ってみたら、理由はもう忘れましたが、その日はセンターではできなかった。それで、隣にある広場でやりました。そこも、いろんなパフォーマーが芸を見せている場所でした。
通りかかったフランスの子どもたちの団体には受けましたよ。でも、全体としてそんなに受けたかというと、そうでもない。まだ芸が未熟でしたからね。
もう一か所、パリから1時間ほどのサンリスという、古いお城のある町のお祭りでもやりました。昔の騎士の行進なんかがある祭りで、遠くからもたくさんの人が見に来る。そこの路上では、受けましたね。
――海外で挑戦しようという思いが、とても強かったのですね。
どうでしょうね(笑)。当時はお金もあったし、だいぶやり込んだと思い込んでいたんです。あれは認識の間違いでした。3年ぐらいやると、もうずいぶんできるようになったぞ、と思うじゃないですか。それで行ったわけです。
そのあと、パリからオランダへ直通の列車で向かいました。オランダには、品川のバーボンエクスプレスで一緒だった女性がいて、文通を続けていたんです。家に泊めてもらって、誕生日パーティーに飛び入りで出たりもしました。旅の途中の列車では、盗難にもあいましたけどね。
口から出るシャボン玉のこと
――口からシャボン玉が出る芸を見て、本当に不思議でした。
あれはね、その場で「わーっ」となる芸ではないんですよ。「不思議」という反応なんです。子どもも、終わってから「どうやったの」と聞きに来る。
以前、アメリカの郵便局員でマジシャンもしている人から、自分でつくった装置の動画が送られてきたことがあります。よくできていましたよ。そのうえで、私のやり方をいろいろ聞いてくるんです。自分は全部見せたから、今度はあなたの番だ、という感じでね。でも私は、自分の芸の種明かしをして楽しいと思うタイプではないので。
シャボン玉の歴史を残すということ
――泡侍さんは、シャボン玉の歴史を記録する人たちとも交流されていますね。
長くメールでやりとりしているキース・ジョンソンという人がいます。シャボン玉のマニアで、いろんなものを発明している人です。彼は、エッフェル・プラステラーの家まで会いに行って、近くの公園で長いインタビューを撮っているんですよ。
マジックのようなエンターテインメントには、記録をまとめている人がいる。でも、シャボン玉のエンターテインメントには、そういうものがない。それをまとめて残そうとするのは、いいことですよ。
――最後に、バブルアップの奥田さんはいまどうされているのですか。
途中から韓国に行って、ずっと向こうで活動していたんです。それが去年、突然連絡をもらいましてね。1年前に日本に帰ってきて、いまもひとりで活動を続けているそうです。
彼は、歯車を回すと風が出て、それと一緒にシャボン玉の輪が回って、大量のシャボン玉が出る仕掛けを発明しているんですよ。話を聞きに行ったら、いい話があるかもしれませんね。
取材を終えて
小さな舞台で、照明に当たって光ったひとつのシャボン玉。泡侍さんの40年あまりは、そこから始まっている。
話をうかがいながら、何度も同じことを思った。いま私たちが当たり前のように立っている場所は、泡侍さんのような方が、何もないところに一歩ずつ道をつけてくださった場所なのだと。シャボン玉が「芸」として知られていなかった時代に、歩行者天国の人ごみに立ち、テレビのスタジオに入り、品川駅のホームで、なんばグランド花月の大舞台で、そしてパリの広場で、シャボン玉をとばしてこられた。その足あとをたどることは、日本のシャボン玉パフォーマンスそのものの歩みをたどることでもあった。
心に残っているのは、泡侍さんがご自身の歩みを少しも大きく語らないことだ。名前の由来をうかがえば「それほど深い理由はない」と笑い、海外に挑んだ若い日のことは「あれは認識の間違いでした」と振り返る。液がだめになって何度も失敗した舞台のことも、思うように受けなかった広場のことも、隠さずに話してくださった。うまくいった日だけでなく、うまくいかなかった日のことまで差し出してくださる。その誠実さに、芸と長く向き合ってこられた方の重みを感じた。
一方で、守るべきものは、はっきりと守っておられる。口から出るシャボン玉のことを尋ねると、穏やかに、けれどきっぱりと、種明かしはしないと話された。見る人の「不思議」を大切にすること。それもまた、40年あまり人の前に立ち続けてこられた方の、芸への敬意なのだと思う。
私がシャボン玉をとばし始めたのは2009年。泡侍さんが歩行者天国に立っていたころから数えれば、ずっと後ろを歩いてきたことになる。それでも今回、こうして直接お話をうかがい、その言葉を書き残す機会をいただけた。シャボン玉の芸には、まだまとまった記録がほとんどない。だからこそ、先を歩いてこられた方の声をいまのうちに受け取り、次の世代へ手渡していきたい。今回の取材で、その思いをあらためて強くした。
貴重なお時間をいただき、若き日の話を、ときに笑いながら、ていねいに聞かせてくださった泡侍さん。当時の写真や資料のこと、かつての相方の奥田さんのことまで気にかけてくださったお心づかいに、心から感謝しています。本当に、ありがとうございました。
(聞き手・構成:シャボン玉おじさん 野村佳史)
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