誰がシャボン玉ショーを始めたのか|日本のバブル史60年
シャボン玉ショーの歴史|江戸の玉屋から三つの源流へ、日本のバブルパフォーマンス六十年史
本稿の凡例|資料の扱いと記述の方針
一、本稿は、日本におけるシャボン玉パフォーマンスの成立と展開を、通史として記述する試みである。管見のかぎり、この主題を通して扱った文献は存在しない。よって本稿は決定版ではなく、後続の訂正と増補を前提とした最初の草稿である。
二、記述は次の三種の資料にもとづく。第一に、当事者が自ら公開している一次資料(公式サイト、著書、本人インタビュー、活動記録)。第二に、報道機関および公的機関による記事・告知、ならびに近世の文献。第三に、筆者自身が当事者として見聞きした事柄である。
三、右の第三、すなわち筆者の見聞にもとづく記述は、本文中で明示的に「証言」として区別する。これを客観的事実として提示することはしない。ただし、記録の存在しない領域においては、証言もまた資料であるという立場をとる。
四、活動開始年について、本人の申告と報道の記述が食い違う場合がある。多くは「技術を始めた年」「ショーを始めた年」「事業として始めた年」のいずれを基準とするかの差である。同一人物の紹介文でも、年次により逆算の合わないことがある。本稿では、確定できないものは幅を持たせるか、誰の申告であるかを明記した。
五、現在も活動中の個人・団体については、原則として固有名を記していない。歴史の記述として名を挙げる必要のある人物にかぎり、本人が公に用いている名義を、了解を得たうえで用いた。
六、営業上の主張(「日本初」「業界一」の類)は、その主張がなされているという事実として扱い、真偽の判定は行わない。
七、数量に関する記述のうち、出所を確認できなかったものは採用しなかった。記録の更新によって過去のものとなった事項は、筆者自身のものを含め、その旨を併記した。
序章|シャボン玉パフォーマンスの歴史は、なぜ記録されてこなかったのか
日本のシャボン玉パフォーマンスには、通史がない。
奇妙なことだと思う。大道芸にも、奇術にも、人形芝居にも、それぞれの歴史書がある。ところがシャボン玉だけは、六十年におよぶ蓄積を持ちながら、誰がいつ何を始め、それが誰に渡ったのかを通して読める文章が、一つも存在しない。
理由は、おそらく単純である。シャボン玉は消えるからだ。
一度の公演で数十万の球体が生まれ、すべて消える。あとに残るのは濡れた芝生だけである。道具も液もほとんどが手製で、規格もなければ特許もない。技術は文書ではなく、公園で交わされる立ち話によって伝わってきた。「それ、どうやって作るんですか」と声をかけた者が、翌週には自分の竿を持って隣に立っている。その反復だけで、この世界は今日まで広がってきた。
美しい伝わり方である。同時に、致命的に記録に弱い伝わり方でもある。
筆者はシャボン玉を生業としている。二〇〇九年に始め、二〇二三年に前職を辞して専業となった。この十数年、自分が何を誰から受け取ったのかを考える機会が幾度もあった。そして、その問いに答えを与える文献が、どこにもないことを知った。
ゆえに書く。
本稿は業界地図ではない。誰が誰に何を渡してきたかの記録である。
そして調べはじめてすぐ、こちらの予想は最初の一撃で崩れた。大人がシャボン玉でビジネスを始めたのは、一九六〇年代が最初ではなかったのである。
第一部|前史 ― 江戸時代のシャボン玉と、その断絶
第一章|江戸時代のシャボン玉売り「玉や、玉や」|語源・作り方・行商の記録
シャボン玉そのものは、古くからこの国にある。
「シャボン」の語は、石鹸を意味するポルトガル語のサボンに由来するとされる。ただしスペイン語からの流入を説く見解もあり、国立国語研究所には語源をめぐる専論すら存在する。定説と呼べるものはない。伝来の時期についても、室町期にポルトガル人によってもたらされたとする記述と、一六世紀の南蛮貿易期とする記述があって、幅がある。
いずれにせよ、渡来した石鹸とともに、泡を吹くという遊びも入ってきた。
そして日本人は、驚くほど早くこれを商売にしている。
一六八〇年(延宝八)に刊行された句集『洛陽集』には、すでにシャボンを吹く情景を詠んだ句が収められている。江戸前期の時点で、この遊びは俳諧の題材になる程度には人々の目に馴染んでいた。
一八三〇年(天保元)刊の『嬉遊笑覧』は、当時の作り方を具体的に伝えている。石鹸は貴重品だったから、庶民が使ったのはムクロジの果皮、いもがら、タバコの茎といった身近な植物であった。これらを焼いて粉にし、水に溶いて泡を吹く。そしてこの遊びには、水圏戯という名前まで付いていた。
名前があるということは、遊びとして自立していたということである。
やがて幕末になると、シャボン玉を売り歩く行商人が現れる。一八三二年には江戸中村座で中村芝翫がこの行商風俗を舞台に乗せ、一八五三年(嘉永六)刊の『守貞漫稿』は、その売り声まで書きとめている。京坂では「ふき玉やさぼん玉」と呼ばわり、江戸では、ただ「玉や玉や」と流した。
首から箱を提げ、片手に吹き具を持ち、街を歩く。子どもが群がる。この光景を、我々は知っている。何のことはない、二百年前の路上に、すでに同業者がいたのである。
ここで、多くの人が予想するのと逆のことが起きる。
明治に入り、石鹸の国内生産が本格化して価格が下がると、シャボン玉売りは姿を消した。
理由は明白である。誰でも家で作れるようになったからだ。行商人の商売は、石鹸が高価であるという一点によって成立していた。普及が、それを殺した。
これが本稿の出発点である。
日本におけるシャボン玉の商業化は、一度成立し、一度絶えている。江戸の玉屋は、いわば第ゼロの源流であり、そして途絶えた源流である。彼らから直接技術を受け継いだ現代のパフォーマーは、筆者の知るかぎり一人もいない。
だからこそ、後に述べる三つの源流は「復活」ではなく「再発明」なのだ。彼らは誰からも受け継がず、ゼロから始めた。二百年前にほとんど同じことをしていた男たちがいたことを、おそらく知らないまま。
もっとも、江戸の玉屋と現代の我々のあいだには、決定的な違いが一つある。
彼らが売っていたのは、シャボン玉ではなく、シャボン玉液だったということである。物売りであって、演者ではない。人を集めるために吹いてはいたが、吹くこと自体が商品ではなかった。
シャボン玉を飛ばすという行為そのものに値がつくまでには、この国はもう百年を要する。
第二章|童謡「シャボン玉」が決めた、日本人とシャボン玉の距離
行商人が消えたあと、シャボン玉は完全に家庭のなかへ入った。
そして決定的な一撃が来る。童謡「シャボン玉」である。
野口雨情の詞が最初に世に出たのは一九二二年(大正十一年)十一月、仏教児童雑誌『金の塔』誌上でのことだった。翌一九二三年(大正十二年)、中山晋平の譜面集『童謡小曲』に曲つきで収められ、童謡として広く知られるようになる。さらに一九三六年(昭和十一年)、雨情自身の手で三番・四番の詞が追加された。
曲については、日本に最も早く輸入された賛美歌のひとつ「主われを愛す」を改変したものではないか、との指摘がある。断定はできない。だが、もしそうであるならば、南蛮渡来の泡を、渡来の旋律に乗せて歌ったことになる。この歌はどこまでも舶来なのである。
雨情が幼い我が子を相次いで喪っていることから、この詞に鎮魂の意を読む説は根強い。あくまで説であって、確証はない。本稿はその当否に立ち入らない。
ただ、この歌が果たした役割ははっきりしている。
童謡「シャボン玉」は、シャボン玉を子どものものとして、この国の情緒のなかに固定した。
屋根まで飛んで、こわれて消える。生まれてすぐに、こわれて消える。あの旋律とともに、シャボン玉は儚さと幼さの記号になった。行商人の売り声「玉や玉や」が消えて、代わりに童謡が全国の子どもの口に乗った。
そしてこの固定こそが、以後の歴史のすべてを規定する。
日本のシャボン玉パフォーマンスの歴史とは、詰まるところ、こうである。
童謡が閉じ込めた「子どものもの」という檻から、いかにしてシャボン玉を連れ出してきたかの歴史。
その連れ出しは、一度ではなく、三度、まったく異なる場所から起きた。
第二部|三つの源流 ― 日本のシャボン玉ショーは、誰が始めたのか
第三章|世界初のシャボン玉ショーと杉山兄弟|1965年・横浜から始まる第一の源流
最初の一撃は、劇場でも興行会社でもなく、素人参加番組のスタジオから来た。そして正確に言えば、テレビ局の便所から来た。
一九六五年(昭和四十年)、番組「アイデア買います」に、横浜の少年がシャボン玉の発明品を持って出演する。審査員は詩人サトウハチロー、および喜劇人の柳家金語楼。作品は評価された。
そして番組の収録後、テレビ局のトイレで、サトウハチローが少年に声をかけた。世の中は細かい金を稼ぐ者ばかりが多いけれど、シャボン玉には夢があっていいね、という趣旨のことを言ったという。
この一言が、日本のシャボン玉パフォーマンスの起点である。
受け取ったのは杉山輝行。のちに兄の杉山弘之とともに「杉山兄弟」を名乗る、この国で最初のシャボン玉アーティストである。(なお、番組に出演したのが兄弟のどちらであったか、あるいは二人であったかは、公開資料からは確定できない。当人の回想には「そのときは高校生だった」とある。)
二人の原体験は祖父にあった。麦わらで吹かれたシャボン玉が美しく、自分たちでも大きな玉を作ろうと試行を重ねた。兄は幼稚園の頃にはもう憑かれていたという。当時はプラスチックのストローなどないから、固形石鹸を溶き、麦わらで吹く。太めのネギを使うと大きな玉ができると発見したのは小学生のときで、目立ちたい一心で理科室で吹いてみせたら、臭いと教師に叱られた。
蜂蜜を混ぜ、山芋を混ぜ、独自の発見を積み上げた。工作を得意とした弟は、やがて玉を生み出す機械そのものを考案しはじめる。賞金で機械を作り、大学の文化祭で披露した。人が笑顔になるのを見て、弟は生涯をこれに賭けると決めた。卒業後も就職せず、糊口をしのぎながら作り続けた。
兄の道筋は、もう少し屈折している。
大学卒業後、彼は自動車販売会社に就職した。そこで販売会の集客方法を考えるうち、シャボン玉に目をつける。呼び込みに使ってみたところ、家族連れが次々と展示場に吸い寄せられ、車が飛ぶように売れた。
この一件は、もっと知られていい。
日本のシャボン玉が最初に金になったのは、舞台の上ではなく、自動車販売店の駐車場だったのである。 子どもの遊びが集客装置として機能することを、六十年前にこの人はすでに実証していた。現在この国で行われている商業施設でのシャボン玉ショーは、ことごとくこの発見の子孫である。
やがて兄は会社を辞め、弟と組んだ。当時としては相当な冒険であり、本人は後年これを「今でいうベンチャービジネス」と評している。
兄が経営、弟が開発。この分業が創業時から確立していたことが、杉山兄弟を一組の芸人ではなく事業体たらしめた。
二人が最初のシャボン玉ショーを行ったのは一九六九年頃とされる。のちにNHKが調査したところ、当時ショーとして興行していた者は世界に他になく、世界初であったという。本稿はこれを、公的機関による認定ではなく、放送局の調査にもとづく主張として記録する。ただし一九六九年という時期の早さそのものは、他の資料と矛盾しない。
一九八三年(昭和五十八年)、直径二メートルの巨大シャボン玉によりギネス記録に登録。認定書は公開されている。舞台は日本武道館、東京ドーム、大阪城ホール、横浜スタジアムにおよぶ。弟の開発したバブルマシンは毎分百万個を放ち、複数の球体を組み合わせたシャボン玉アートは幾何学的な均整を持つ。
(一九九〇年代に直径十六・六メートル、二十メートルの記録を樹立したとする記述が各所に流布しているが、一次資料を確認できなかったため本稿では採用しない。同様に、ギネス初掲載を一九八八年とする二次情報もあるが、認定書および複数の報道は一九八三年で一致している。)
彼らは舞台の外へも出た。都市工学および細胞学の研究者と協力し、シャボン玉の物理的性質を社会に応用する試みに関わっている。著作は絵本、科学書、実録漫画にわたり、複数が日本図書館協会および全国学校図書館協議会の選定図書となった。六甲山中には、彼らの名を冠した常設展示も置かれている。
これが第一の型である。
発明と機材開発を起点とし、ホール・出版・学術を通じて、シャボン玉を「科学とエンターテインメントの交点」として上から確立した系譜。
二〇二六年現在、兄弟はともに七十代にある。それでもなお現役であり、この春も横浜の福祉施設の舞台に立った。半世紀を超えて同じことを続けているという事実それ自体が、一つの記録である。
第四章|大道芸としてのシャボン玉・玉乃屋泡侍|1980年代・京都の第二の源流
第二の源流は、まったく異なる方角から現れた。
一九七四年、二十一歳の青年が舞台の世界に入る。演劇、パントマイム、モダンダンス。以後十年、身体表現の人間として活動した。
一九八二年、彼はトリックを用いたパフォーマンスを始める。原宿や銀座の歩行者天国に立ち、見慣れた風景のなかに少しばかり可笑しな人物を出現させる、という趣旨の演目である。そのなかで最初のシャボン玉トリックが生まれた。「シッポから吹きでるシャボン玉」という。
彼が玉乃屋泡侍、屋号を「ふきだま屋」という。
ここが決定的である。この人物はシャボン玉から入っていない。パントマイムの表現手段として、たまたまシャボン玉を選んだ。ゆえに彼の舞台には、第一の系譜にはない「間」と「可笑しみ」がある。
一九八六年よりシャボン玉とパントマイムを組み合わせた公演を本格化させ、一九八八年には〈バブルアップ〉を結成して喜劇仕立てのショーを全国で展開した。のちソロとなり、自作の機械を考案しながら舞台に立ち続けている。
活動年数の起点は、資料によって揺れる。二〇二四年時点の公式プロフィールには「ショーを始めて三十五年」とあり、逆算すれば一九八九年。一方、数年前の紹介文には「二十五年」とあって、こちらは一九九〇年代半ばを指す。凡例四に述べたとおり、こうした差は珍しくない。トリックを始めた年、シャボン玉のショーを始めた年、ソロになった年——どこを起点に置くかで、本人の中でも数字が動く。本稿は、いずれも本人の申告として併記するにとどめる。
商業施設からホール、幼稚園から大学祭まで、公演の尺は二十分から六十分。九州から東北まで、車に機材を積み、依頼があればどこへでも行く。
そして彼が掲げる惹句が、この系譜の性格を過不足なく言い当てている。
シャボン玉のふしぎを演出する、それほど科学的でもない、こどもからおとなまで楽しめるシャボン玉ショー
「それほど科学的でもない」。第一の系譜が科学を掲げたのに対し、あえて科学性を降ろしてみせた。これは謙遜ではない。明確な位置取りである。彼にとってシャボン玉は説明する対象ではなく、演じる対象なのだ。
玉乃屋泡侍に会って聞いた話|口ひげの正体と、ハイエース三台目
以下は筆者が本人から直接聞いた話である。
筆者は一度、氏に会っている。パフォーマンスへの向き合い方について、長く話を聞かせてもらった。
そのとき、かねて引っかかっていたことが腑に落ちた。口ひげと衣装である。
芸名から連想される和風の意匠を作りにいったものだろうと、勝手に思い込んでいた。違った。チャップリンだったのである。
チャップリンが好きで、口ひげも身につけるものも意識しているのだと、本人が語ってくれた。それを聞いてから舞台を思い返すと、すべての説明がついた。喋りで押さない。間で見せる。困った顔をしてみせる。観客が笑ってから、ようやく玉が飛ぶ。あれはシャボン玉の芸ではなく、喜劇だったのだ。小道具がたまたまシャボン玉だったにすぎない。
もう一つ、忘れがたい話がある。
仕事用のハイエースが、いま三台目だという。
シャボン玉の機材は嵩張るわりに繊細で、一式を積むと乗用車では到底足りない。彼はそれを車に積み、依頼のある場所へ走り続けてきた。すなわち、すでに二台を乗り潰しているということである。
筆者はこの話を聞いたとき、少しく言葉に詰まった。公演数でも動員数でもない。走行距離が、この人の経歴の単位なのだ。三十余年、呼ばれた場所へ走り続けた結果として、車が二台なくなった。これ以上に雄弁な実績表を、筆者は知らない。
これが第二の型である。
演劇と大道芸を起点とし、シャボン玉を「身体表現の小道具」として横から取り込んだ系譜。
彼は文化庁の助成を受けた公共文化事業にも、サーカス公演の一演目として招かれている。舞台芸術の側からの評価を得ているということだ。
第五章|代々木公園のシャボン玉おじさん・栗坂忠雄|バブルガーランドと第三の源流
第三の源流は、ホールでも劇場でもなく、公園の芝生から生まれた。
二〇〇〇年代、東京・渋谷の代々木公園中央広場。噴水とドッグランのあいだのあたりに、休日になると一人の男が現れるようになる。
栗坂忠雄。周囲は彼を「シャボン玉おじさん」と呼んだ。
彼の活動は、先行する二つの系譜とまったく異なっていた。売らなかったのである。
告知には毎回、どなたでも気軽にシャボン玉遊びができます、と書かれていた。そして必ず、この活動は完全に私的なものであるから公園への問い合わせは遠慮願いたい、と添えられていた。人が入れる巨大な球体から、淡雪のような細かい泡まで。それを、通りかかった者にことごとく触らせた。
ここで、江戸の玉屋を思い出しておきたい。
二百年前、彼らはシャボン玉液を売っていた。石鹸が高いあいだは商売になり、安くなった途端に消えた。売り物にしたものは、値が下がれば消える。
栗坂は、最初から売らなかった。だから値の下がりようがなかった。彼が手渡したものは、二十年を経ていまも消えていない。
この方式が何を生んだか。
弟子ができないかわりに、無数の継承者ができた。
彼のもとには、通りすがりに声をかけた者が次々と現れた。世田谷を拠点とするあるパフォーマーは、十数年前に代々木公園で見かけたシャボン玉に驚いて声をかけ、液の配合を教わったところから始まったと語っている。改造した釣り竿を二本持ち、その先に付けた紐やプラスチックチェーンを液に浸し、空に掲げて風をはらませる——道具の記述まで一致している。同じことが、何度も、何人にも起きた。
筆者もその一人である。
栗坂が惜しみなく手渡したもののうち、最も遠くまで届いたのが、このプラスチックチェーンを用いたバブルガーランドであった。二本の竿の先にチェーンを渡し、液に浸して風をはらませる。それだけで一度に百を超える球体が生まれる。ストローによる従来の方式とは、迫力が根本的に異なる。
この道具は現在、日本のバブルパフォーマーの基本装備となっている。誰もが当然のように用い、誰もその出自を語らない。
これが第三の型である。
公園と野外を場とし、無料開放と口伝によって、シャボン玉を「誰のものでもない遊び」として水平に広げた系譜。
そして彼はもう一つ、この国のシャボン玉に決定的なものを持ち込んだ。
第三部|夜 ― ナイトバブルは、いつ、どこで生まれたのか
第六章|夜のシャボン玉ショーの原点|代々木公園で見たナイトバブルの証言
シャボン玉は昼のものである。
長らく、それは疑う余地のない前提であった。屋内公演を主とする系譜も、屋外の系譜も、光のある時間に演じるものと考えていた。夜は暗い。暗ければ見えない。当然の理屈である。
以下は筆者の証言である。客観的記述ではない。
その前提を筆者が失ったのは、代々木公園の夜だった。
暗闇のなかに、照明の光を受けたシャボン玉が浮かび上がっていた。昼に見るあの半透明の球体とは、まったく別のものであった。光が膜の内側を走り、色が回り、そして消える。何が起きているのかを理解するのに、しばらくかかった。文字どおり、言葉を失った。
シャボン玉は昼のものだという思い込みが、一瞬で崩れた瞬間である。
終演後、意を決して声をかけた。栗坂は笑って、こう言った。
シャボン玉は誰のものでもない。風と光とシャボン玉液があれば、誰でもこの景色が作れる。
彼は道具の作り方も教えてくれた。プラスチックチェーンのガーランドの仕組み。観客とのあいだに取るべき距離。筆者の表現の根本にあるものは、すべてあの日に始まっている。
ここで、正確を期しておきたい。
「日本で最初に夜のシャボン玉を演じたのは栗坂忠雄である」と断定するに足る資料を、筆者は持たない。海外の催しで夜のシャボン玉を演じていた日本人パフォーマーの記録も、別に存在する。世界に目を向ければ、事情はさらに複雑であろう。
ゆえに、こう記す。
筆者は、栗坂忠雄より前に、日本国内で夜のシャボン玉パフォーマンスを行っていた人物を知らない。そして、彼が夜の代々木公園で見せたあの光景が、日本のナイトバブル文化の原風景の一つであることは疑わない。
これは断定ではなく、当事者の証言である。証言には証言の価値がある。少なくとも、何も残らないよりは、はるかによい。
第七章|バブルアーティストはなぜ増えたのか|2020年代に現れた四つの型
この十年で、状況は激変した。
引き金は二つある。スマートフォンと、感染症の流行である。
シャボン玉は写真と動画に異常なほど強い。光を受けた球体が空を埋める光景は、画面のなかで際立つ。それまで「その場にいた者だけのもの」であった体験が、そのまま拡散する情報になった。
そこに、二〇二〇年が重なる。行事が次々と消え、子どもから機会が奪われた年。日本各地で、互いに面識のない者たちが、ほとんど同時に同じことを思いついた。
これなら、笑顔を届けられる。
あの年を境に、この国のシャボン玉人口は明らかに跳ね上がった。管見のかぎり、その始まり方には、いくつかの型がある。
第一の型|わが子との公園から始まる
わが子と公園で飛ばしていたら、周囲の子どもまで集まって笑った。行事が消えて子が元気を失っていた時期であったから、その光景がやけに眩しく見えた。それだけのことが出発点になる。この型の者は、たいてい液の研究から入る。割れない大玉を作るために、何百回と配合を試す。そして多くの場合、最後まで無償を通す。頼まれれば園にも行くが、対価は受け取らない。この仕事の底には、常にこうした人々がいる。
第二の型|通りすがりに声をかけてしまう
休日の海辺や河原で、見知らぬ誰かが飛ばしているのを見た。子どもが歓声を上げて追いかけるその空間に、自分のほうが魅せられてしまった。気づけば声をかけており、相手はあっさり作り方を教えてくれた。翌週には材料を買い揃え、近所の広場で独り練習している。この型が最も多く、そして最も遠くまで行く。会社を辞して専業となり、仲間を集め、数年で郷里を越えていった者が、この型からは何人も出た。
第三の型|出演者から主催者へ回る
はじめは児童館の園庭に呼ばれる程度であったのが、やがて冬の照明装飾に招かれ、祭りの目玉として名を冠され、そしてある日、自ら催しを立てる側に回る。出演者から主催者へ。この移行を、現在の世代は驚くほど短期間でやってのける。四、五年で到達する例を、筆者はいくつも見ている。かつて十年を要した信用の蓄積が、圧縮されているのだと思う。
第四の型|次の担い手へ渡す側に立つ
自分が上達することよりも、次の誰かに手渡すことへ軸足を移す者がある。若い担い手を組織に入れ、ときに年少の弟子を取る。催しを開けば、子どもが実際の舞台に出られる枠をわざわざ設ける。技術の継承を、思いつきではなく仕組みとして行っている。この型は最も新しく、そして最も遠い未来に効いてくる。
筆者もまた、この流れのなかの一人であった。二〇二二年十一月、世界最長のガーランドワンドでギネス世界記録に挑み、翌二〇二三年二月、十四・三一七メートルが公式に認定された。同年三月末、二十年以上勤めた前職を辞し、姫路に移っている。
なお、この記録はすでに筆者のものではない。二〇二四年六月、台湾・高雄市で十六・〇五九メートルが記録され、更新された。挑んだのは、父親と、当時七歳の息子である。三年をかけて材料を試し、細い網糸で竿を仕上げ、地元の幼稚園でショーを演じてそのまま記録を出したという。
この報せを知ったとき、筆者は自分でも意外なほど、何とも思わなかった。むしろ得心した。親子で三年、材料を試し続けて、幼稚園で吹く。それは第一の型そのものであり、第四の型でもある。記録を取られたのではない。この六十年ずっと同じことをしてきた誰かに、順番が回っただけである。
ここで注目すべきは、これらすべてに共通する一点である。
液の研究から入った者も、海辺で声をかけた者も、主催者となった者も、弟子を取った者も——そして筆者も、海の向こうのあの親子も。誰ひとりとして、学校で習っていない。
全員が、どこかで誰かに声をかけている。あるいは、声をかけられている。
第一の源流の時代から数えて六十年、この業界の伝達方式は一度も変わっていない。教科書がないから、人に会うほかない。それがこの世界の弱点であり、同時に、最も美しい部分でもある。
第八章|ナイトバブルショーが産業になるまで|事業化と「最初にやった人」問題
二〇二〇年代の半ば、夜のシャボン玉は急速に商品となった。
照明装飾との連動。花火大会との併催。無人機による演出との共演。有料券を発行する巡回興行。数千人規模の会場。専門の担い手による照明設計と音響演出。企画と運営を専業とする法人。
わずか数年のうちに、あの代々木公園の夜が産業になった。
これは基本的に善いことである。市場が成れば専業で食える者が増える。専業が増えれば技術が上がる。技術が上がれば観客が喜ぶ。悪いことではない。
ただし産業化には、必ず副作用がある。「最初にやったのは誰か」が、商品説明の一部になってしまうことだ。
現在、この領域を扱う各者は、それぞれの言い方で自らの先進性を主張している。なかには「国内で初めてエンターテインメントショーとして事業化した」という、きわめて慎重かつ正確な表現を選んでいる例もある。周到な書き方だと思う。最初に演じたことと、最初に事業にしたことは、別の事柄だからである。
その区別を保つことが、本稿の目的の一つである。
事業化した者には事業化した功績がある。それは本物だ。だが事業化される以前に、無料の公園で、誰にも数えられぬまま夜のシャボン玉を飛ばしていた者がいた。この事実は、事業化の功績と何ら矛盾しない。両方が同時に真実でありうる。
歴史を書くとは、どちらかを消さないことである。
そして第一章を書き終えた者として、もう一つ言い添えておきたい。
売り物にしたものは、値が下がれば消える。 江戸の玉屋がそうであった。彼らは石鹸が高価であるという条件の上に商売を築き、その条件が消えたときに一緒に消えた。
いま我々が売っているのは、シャボン玉ではなく、夜である。暗がりと光と音を束ねた、あの数十分の時間である。それがいつまで希少であるかは、誰にもわからない。機材が安くなり、誰もが自宅の庭で同じ光景を作れるようになったとき、この産業は江戸の玉屋と同じ道をたどるのかもしれない。
そのとき残るのは、売らなかった者が渡したものだけである。
第四部|結 ― 受け継がれた道具と、これから
第九章|バブルガーランドは誰が作ったのか|名前を失った道具の話
いまこの瞬間も、この国のどこかの広場で、誰かがシャボン玉を飛ばしている。
その手元を見てほしい。二本の竿。あいだに渡したプラスチックのチェーン。液に浸し、風上へ掲げるだけで、一度に百を超える球体が空へ流れていく。
握っているのは専業の演者とはかぎらない。休日だけの愛好家もあれば、親に付き合って覚えた子どももいる。北の街でも南の街でも、道具の形はほとんど変わらない。誰も特許を取らず、誰も囲い込まず、ただ「これ、どうやるんですか」の連鎖だけで、この形は日本列島を縦断した。海を越えてもいる。
二本の竿。プラスチックチェーン。ガーランド。
代々木公園で筆者が教わったものと、まったく同じ道具である。
技術は届いた。これ以上なく幸福な普及の仕方だと思う。
同時に、その道具を誰が生み出したのかを口にする者に、筆者はほとんど出会ったことがない。
責める気はない。誰も悪くない。普及した技術ほど、発明者は忘れられる。空気のごとく当然になったものに、いちいち由来を尋ねる者はいない。それは技術が真に根づいたことの証明ですらある。
現に、江戸の玉屋の名を、我々はもう誰ひとり知らない。二百年前、街を流して「玉や玉や」と呼ばわった男たちが確かにいたのに、残っているのは売り声の文句だけで、名前は一つも残っていない。書き留めた者がいなかったからである。
けれど、由来を知る者が黙していれば、それは永久に失われる。
だから書いている。
終章|シャボン玉の歴史を記録する意味|三つの源流のまとめ
日本のシャボン玉には、まず一度、途絶えた源流がある。
江戸の玉屋。ムクロジといもがらで泡を立て、箱を提げて街を流した行商人たち。石鹸が安くなった明治、彼らは静かに消えた。誰にも継がれなかった。
そして百年の空白ののち、三つの源流が別々に生まれた。
第一は、一九六〇年代の横浜から。発明と機材開発を武器に、ホールと出版と学術を通じて、シャボン玉を大人の鑑賞に堪えるものへ引き上げた系譜。
第二は、一九八〇年代の路上から。演劇と身体表現の側からシャボン玉を取り込み、舞台芸術の一演目として磨いた系譜。
第三は、二〇〇〇年代の公園から。何も売らず、何も囲わず、道具の作り方ごと手渡し続けることで、この国の風景そのものを変えた系譜。
そして今、第四の層が生まれつつある。通信網と自主興行を武器に、地域ごとに立ち上がった二〇二〇年代の担い手たちである。彼らはまだ歴史になっていない。現在進行形である。
筆者自身は、第三の系譜の直系にある。筆者が飛ばす夜のシャボン玉は、代々木公園の芝生から届いたものだ。それをはっきり記しておきたくて、この長い文章を書いた。
シャボン玉は消える。生まれて数秒で消える。記録も消える。ギネスの数字ですら、二年で他人のものになる。江戸の玉屋にいたっては、名前ごと消えた。
だからこそ、この仕事に就く者には、消えないものを一つだけ残す責務があるように思う。
それは技術でも、映像でも、記録そのものでもなく——受け取ったという事実である。
日本のナイトバブル文化の発展に寄与し、その素晴らしさを教えてくださった栗坂忠雄氏に、心からの感謝と敬意を表します。あなたが夜の代々木公園で見せてくれたあの光景を、筆者は生涯忘れません。
そして、この文章を読んで自分もやってみたいと思った誰かへ。
近くの公園で誰かがシャボン玉を飛ばしていたら、声をかけてみてください。この六十年、この業界はずっとそうやって続いてきました。二百年前も、たぶん同じでした。
風と光とシャボン玉液があれば、誰でもあの景色が作れます。
附録|シャボン玉パフォーマンス史の年表と出典
シャボン玉の歴史 年表|1680年から2020年代まで
| 年 | 事 項 |
|---|---|
| 一六世紀 | 「シャボン」の語が渡来。石鹸の伝来にともなうとされる(語源・時期には諸説あり) |
| 一六八〇 | 『洛陽集』にシャボンを吹く情景の句。江戸前期には遊びとして定着 |
| 一八三〇 | 『嬉遊笑覧』が作り方を記録。ムクロジ・いもがら・タバコの茎を用い、「水圏戯」と称した |
| 一八三二 | 江戸中村座でシャボン玉売りの風俗が舞台化される |
| 一八五三 | 『守貞漫稿』が売り声を記録。京坂「ふき玉やさぼん玉」、江戸「玉や玉や」 |
| 明治期 | 石鹸の国内生産拡大により価格が下落。シャボン玉売りは姿を消す(第ゼロの源流の断絶) |
| 一九二二 | 十一月、野口雨情の詩「シャボン玉」が『金の塔』に発表 |
| 一九二三 | 中山晋平の『童謡小曲』に童謡として収録 |
| 一九三六 | 野口雨情により三番・四番の詞が追加される |
| 一九六五 | 素人参加番組にてシャボン玉の発明品が発表される。第一の源流の起点 |
| 一九六九頃 | 最初のシャボン玉ショー興行。世界初とされる(放送局の調査による) |
| 一九七四 | 第二の源流となる人物が舞台活動を開始 |
| 一九八二 | トリック演目としての最初のシャボン玉が考案される |
| 一九八三 | 直径二メートルの巨大シャボン玉がギネス記録に登録 |
| 一九八六〜八九 | シャボン玉とパントマイムを組み合わせた公演が本格化 |
| 二〇〇〇年代 | 代々木公園における無料開放型の活動。第三の源流 |
| 二〇〇九 | 筆者、活動を開始 |
| 二〇一〇年代 | プラスチックチェーンによるガーランドが口伝で全国へ拡散 |
| 二〇二〇 | 感染症流行を機に、各地で担い手が同時多発的に出現 |
| 二〇二二 | 十一月、ロンゲスト・ガーランドワンド部門の世界記録に挑戦 |
| 二〇二三 | 二月、十四・三一七メートルが公式認定。三月、筆者が専業となる |
| 二〇二四 | 六月、同記録が台湾で十六・〇五九メートルに更新される |
| 二〇二〇年代半ば | 夜間公演の事業化が進み、有料興行・巡回公演が成立 |
出典と検証について|本稿が採用しなかった記述
本稿は、各当事者の公式サイト、著書、本人インタビュー、新聞・放送による報道、公的機関・主催者による告知、および近世の文献(『洛陽集』『嬉遊笑覧』『守貞漫稿』)にもとづく百科事典項目を主たる典拠とした。筆者の見聞にもとづく部分は、本文中に「証言」として明示している。
「日本初」「世界初」に類する記述については、公的な認定にもとづくもの、報道機関の調査にもとづくもの、当事者の主張にとどまるもの、そして筆者個人の証言であるものを、それぞれ区別して記した。読者においては、この区別を踏まえて読まれたい。
出所を確認できなかった数量・年次は採用していない。そのため、既存の紹介文などに記載のある事項で、本稿があえて触れていないものがある。杉山兄弟の一九九〇年代の記録とされる数値、および筆者自身の記録の達成日をめぐる複数の表記は、その代表例である。
記録の更新については、筆者自身のものを含めて併記する方針をとった。歴史書が自分の記録の陥落を書かないのは、単に信用の問題である。
誤りの指摘、反証となる資料、あるいは本稿に記されていない証言をお持ちの方は、ぜひご一報いただきたい。訂正と増補を重ね、より正確な記録としていきたい。
記録は、一人で書けば主張になる。複数で持ち寄れば、歴史になる。
シャボン玉おじさん/野村佳史(バブルワークス)





